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向山洋一がたどった特別支援教育の歩み~それは「ぼく死にたいんだ」から始まった~

発達障害の概念が全くなかった時代に実現していた向山実践。今でも追随できないほどのその先進性を分析する。

玉川大学教職大学院教授 谷 和樹

一 吉岡君への教育が現代に与えるインパクト

『教師修業十年』(明治図書)の第Ⅱ章二。
「ぼく死にたいんだ」の項は、次の文で終わる。

日本中で、困難にぶつかりながら教育の仕事に打ちこんでいる名さえわからぬ仲間たちに、ぼくもまた、自分の場でその仕事に全力を尽くしていると伝えたいと思った。なぜか、突然そうした考えが浮かんできた。

(p.72)

 向山氏はその後教育技術の法則化運動を創設する。
そして、全国の教師たちをつなげる空前の情報ネットワークをつくり上げた。
向山氏の数多くの実践は、全国の教師たちに巨大な衝撃を与えることとなった。
 
① 向山式跳び箱指導法
② 分析批評による「春」の読解指導
③ 授業の腕をあげる法則
 等々……

 
発表された方法は全国に炸裂するように広がっていった。
 
全国の仲間たちと価値ある教育情報を共有する。
 
こうした考えを氏が持った、いわば原点の実践が、この吉岡君(『教師修業十年』では林君)への教育だったのだ。

この実践の重要性・先進性は、今ならはっきりと理解できる。
しかし、発表された当時の状況は、今とは異なる。
 
向山氏がこれを実践した当時は「発達障害」という概念そのものさえ、影も形もなかった。
 
向山氏の実践を読んで「凄い!」と多くの教師たちが感じ、勇気を与えられたことは確かである。
しかし、この実践を次のように意味付けようとする仕事はほとんどない。
 
① 報告された事実を客観的に分析し、
② そこから法則性を取り出し、
③ 全国の教室で活かしていける形に整理する。

 
大場龍男氏など一部の先進的な試みを除いては、未だ充分にはなされていない。
分析できるレベルまで研究が追いついていなかったのだと思う。

この連載は、それに挑戦しようとするささやかな企てである。
 

二 状態の正確な把握と分析からすべては始まる

さて、その吉岡君である。

『教師修業十年』には、彼の状態の困難さが描写されている。
その描写の元となった記録が『調布大塚小の生活指導実践記録1977・4・1〜1978・3・31』(東京都大田区立調布大塚小学校 ※現在は入手不可)に克明に書かれている。

次に挙げるのは彼が四年生のときの状態である。
量が多いので一部を抜粋・短縮して引用する。
 

◆  ◆  ◆

06/14 玄関で石を投げ、Hが止めたら眼鏡をひったくり投げ飛ばす。
07/05 ハンドベースの最中、女子が2塁へ来ると髪の毛をつかむ。足をふむ。大きな石を3個持ち、女子めがけて投げる。女子の下靴を溝に捨てる。
07/06 隣の子の筆箱から消しゴムを投げる。Nの筆箱を窓から外へ捨てる。
07/07 「ぼくは馬鹿だから屋上から飛び降りて死にたい」とつぶやく。
09/06 Nとけんか。靴を窓の外に投げる。
09/21 二年生の女子に石を投げて足にけがをさせる。三年生の男子の髪の毛をひっぱる。物を窓外へ5、6回投げる。
10/15 習字後、筆を振り回し、周りの子供9人の衣服をよごす。
11/18 Nの学習用具を池に投げ込む。掲示してある習字の紙を破る。
11/22 カッターナイフでNを追いかける。「Nを殺してやる」目は血走り分裂病的状態。
11/29 他人の学用品を投げ出す。担任のブラウスをひっぱる。手をかむ。教頭先生にわめく。足げり、頭つき。

◆  ◆  ◆

発達障害に対する研究がかなり広がってきた現在から見ても、これは極めて壮絶な状態であろう。

この子を五年生で向山氏が担任することになる。
まず、次の問いから検討する。
 
① この記録から、自分なら何をどのように分析するだろうか。
② 五年生になる時のクラス替えにあたって、自分ならどのようなことに配慮するだろうか。

 


谷 和樹
玉川大学教職大学院教授。北海道札幌市生まれ。神戸大学教育学部初等教育学科卒業。兵庫教育大学修士課程学校教育研究科教科領域教育専攻修了。兵庫県の公立小学校に22年勤務。TOSS(Teachers’ Organization of Skill Sharing)代表。著書「子どもを社会科好きにする授業」(学芸みらい社)、「谷和樹の学級経営と仕事術」(騒人社)他、書籍・論文多数。


※この記事は2015年10月1日発行の『TOSS特別支援教育 創刊号』に掲載されたものの再掲です。
一部、名称等が当時のものになっていることがありますこと、あらかじめご承知おきください。

※この記事へのお問合せはTOSSオリジナル教材HPまで。
https://www.tiotoss.jp/